認知科学に現象学は何を寄与しうるか

認知科学現象学は何を寄与しうるか
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~philos/phenomenologie.htm

1. 現象学とは何をする哲学なのか? 何が売りなのか?

 ということは、だれに聞いても多分、「絶対これだ」という自信たっぷりの答えが返ってきそうもないので、正面から問わないことにしよう。
その代わりに、「事象そのものへ」とか、「本質直観」とか、「現象学的還元」とか、「客観的世界の手前にある生きられた世界に立ち帰る」といったスローガンを頭に思い浮かべながら、
認知科学における一つの具体例に即して、現象学という思考方法(?)が心の科学に何を貢献しうるのかを少し考えてみたい。

要するに、目指すところは現象学の可能的ケース・スタディであり、そのケースとは、コネクショニズムによる素朴心理学消去の主張である。

2. 素朴心理学に対するコネクショニズムからの攻撃

 素朴心理学(folk psychology)のいくつかの概念に対する攻撃は、主に消去主義的唯物論(eliminative materialism)の立場から行われてきた。
それは要するに、信念や欲求や意図といった概念は実は「まがいの概念」であって、それによる心的現象の説明は本当は根本的に間違った説明なのだから、
将来、科学的心理学が成熟した暁にはそれらを本質的に含む素朴心理学は消去されるだろう、という主張である。

素朴心理学は<心理学>という名を冠してはいても、その実体は、心理状態や行為に関して日常生活でふつうに用いられる説明方式であり、常識的な理解である。

したがって、それが根本的に誤りであるとか、消去されるとかいうことになるとすれば、その影響は、例えばハイデガーの哲学が誤りだと判明して消去される(廃れる?)、といった場合とは比較にならないほど深刻で甚大である。

 古くはセラーズ、ローティ、最近ではチャーチランド夫妻やスティッチが提起した消去主義の議論は、現在では認知科学における一つの研究パラダイムであるコネクショニズム(connectionism)が、より具体的な認知メカニズムの説明からの帰結という形で展開している。

その消去主義の主張の眼目は、「われわれの認知のメカニズムが古典的計算主義の言うような構造ではなくコネクショニストの言うような構造をしているがゆえに、素朴心理学は認知科学からの裏書きを得られない」、というところにある。

6. 現象学者はどのようにこの種の消去主義に反撃しうるか?

 目的は、もし現象学の立場からこの種の消去主義に対抗しようとしたら、どのような議論の仕方がありうるか、ということの検討である。
もっとも、ここでのケース・スタディとしては、逆にいかに消去主義を擁護するか、という路線でもまったくかまわない。
しかし、ここで反消去主義の方を取り上げるのは、恐らく90%以上の現象学者は、素朴心理学が今後の科学的探求の結果誤りだとして破棄されるだろう、という主張には断固反対すると思われるからである(きちんとアンケートを採ったわけではないが、私はこの数字にいくらかなら賭けてもよい)。
結論を初めから決めて論証を組み立てるのはいささか学問的良心に悖る(?)ように思われるかもしれないが、すべての方策が失敗したらいさぎよく消去主義の軍門に下ると覚悟しているなら、それはそれで健全なやり方であろう。

 そこで、前提二つと結論からなる先ほどのラムジーらの論証に戻ろう。その牙を抜いて素朴心理学を擁護する戦略はいくつか考えられるが、まずは次の4つだろう。

(a) 前提の(1)を拒絶し、素朴心理学の正しさと命題的モジュール性が成立しないことは両立する、と論ずる。つまり、命題的モジュール性の成立は素朴心理学の正しさの必要条件ではない、という論証を展開する。
(b) 前提の(2)を拒絶し、コネクショニズムの正しさと命題的モジュール性が成立することは両立すると主張する。つまり、コネクショニズムの正しさは命題的モジュール性が成立しないことの十分条件ではない、ということを示す。
(c) かれらの論証は受け入れるが、結論の前件である「コネクショニズムは正しい」を拒絶する。つまり、コネクショニズムは正しくないことを示すことができれば、結論は「前件が偽であるがゆえにトリヴィアルに真な条件法」という形で牙を抜かれ、素朴心理学は正しくないという単独の結論は導けない。
(d) かれらの論証は受け入れるが、前提(1)の条件法の前件、「素朴心理学は正しい」ということを拒絶する。これは、一見すると無謀かもしれないが、<理論としての素朴心理学>というかれらの議論の大前提を拒絶し、むしろ<道具としての素朴心理学>を擁護しようといういわば捨て身の戦略である。この場合、命題的モジュール性が成立すると見るかどうか、コネクショニズムが正しいと見るかどうかは、論者により異なる。

 それ以外にも例えば、次のような戦略もありうるだろう。

(e) かれらの論証の隠された前提のどれか一つを掘り崩すことによって、論証の妥当性から毒をぬき、無害化する。

というわけで、コネクショニズムからの攻撃に対する素朴心理学擁護というケースに関しては、<とりわけて現象学的なもの>の出番はないように思われる。

それは偶然ではなかろう。

というのも、認知科学の探究領域が、われわれの意識的な心的現象の背後にあってそれを支える認知メカニズムの研究である限り、そこでは現象への直観的な接近は特権性を剥奪されざるをえず、したがって問題となる現象へ有効な仕方で関与するには、ますますもって、哲学一般として関与するか、科学として関与するかのいずれかしか道は残されていないからである。
するとこの教訓は、もっと一般化できるのではないか?

7. <哲学>する? <科学>する? それとも<お話し>する?

 「コネクショニズムvs素朴心理学」というのは、認知科学においてあまりにローカルなケース・スタディであって、以上の議論の射程もそのローカルな領域にとどまる、と期待(?)する向きもあるかもしれないが、残念ながらそうではない。
素朴心理学の運命というこの問題は、おびただしい数の関連文献からも分かるように、現在の認知科学心の哲学のもっとも重要な話題の一つなのである。
そこで、「現象学だって哲学じゃん、じゃ、哲学は認知科学に何を寄与しうるのか?」ということの示唆を最後に簡単に紹介しながら、現象学の<可能な最終的な寄与形態>をあぶり出しておこう。
もちろんそれは、フッサールハイデガーやメルロ・ポンティらの「文献解釈」などという、私を含めた老人世代向けの<窓際族のお仕事>でないのは言うまでもない。
 さて、その示唆とは、以下に少々アレンジして紹介する、ファン・ゲルダの哲学の宣伝(/哲学者への提言?)である(4)。
これは、認知科学において哲学が果たす役割を論じたものであるが、認知科学を科学一般に、また哲学をさまざまな流派の「・・・哲学」に置きかえて読むこともできる。

7-1. 哲学者の用いる方法・道具立て

7-1-1. 論証(Argument)----ラムジーらのような消去主義の論証を組み立てること、また、それを反駁するための論証を企てること。
7-1-2. 概念分析(Conceptual Clarification/Analysis)----論証に用いられている言葉の意味、概念を明晰化すること。例えば、命題的モジュール性の特徴の一つ、「機能的に分離可能」とはどういうことかを明確にすること。
7-1-3. 歴史的視点(Historical Perspective)----ハイデガーウィトゲンシュタインといった過去の哲学者の論証やアイデアに立ち返ることによって、目下の問題に対する解決のヒントを得ること。もちろんそれは、かれらへの興味がもっぱらの目的で文献解釈に「はまる」ことではない。

7-2. 哲学者が果たす役割

7-2-1. 開拓者(The Pioneer)----これまで誰も考えつかなかったような問題を立てる人。例えば、われわれの思考や推論は「思考の言語Language of Thought」によってなされているのではないかという予測とその論証をなし(フォーダー)、さらにその予測を科学者の手による探求に渡す。
7-2-2. 住宅建築調査士(The Building Inspector)----経験的探求の土台となる理論的前提や方法論的前提を明確にし、それらの欠陥を調査し、必要とあらば改善する人。
7-2-3. 禅僧(The Zen Monk)----他の誰も歯が立たず、また、それに取り組むだけの時間も忍耐も持ち合わせていないような困難な理論的問題に取り組む人。
7-2-4. 地図制作者(The Cartographer)----認知科学のさまざまな要素の全体がどのように関連しあっているかを示す人。この科学の広域的な概念上の地図を作製する。
7-2-5. 古文書保管人(The Archivist)----過去の重要なリサーチ・プログラムやアイデアの成功例/失敗例を理解し、いつでも使えるように保管しておく人。
7-2-6. 応援団(The Cheerleader)----新たな見込みあるリサーチ・プログラムが認知科学や社会一般で認められるように、お墨付きと声援を送る人。
7-2-7 アブ(The Gadfly)----ソクラテスのような人(とファン・ゲルダは言ってないが)。あるいはコネクショニズムを攻撃するフォーダーとピリシン、その毒々しさと挑発的態度と執拗さの点で。

 私としてはこれにもう一つ、哲学に目覚めた科学者をいたずらに観念の袋小路に迷いこませない、という哲学者の役割をつけ加えたい。

7-2-8 オカルト療法士?(The Exorcist)----新たなリサーチ・プログラムの発見や成功に酔い、それを特定の哲学の正しさの証だと勘違いするような科学者を、正気に戻す人。

 さて、ファン・ゲルダのこの話をさらに詳しく解説する必要はないだろう。
これらのリストは、完全であることを意図されていないし、完全でなくともいいが、それらがおおむね妥当だということはわれわれも実感することができると思う。
もし現象学者が認知科学に何か寄与をなしうるとしたら、彼女/彼は哲学者としてここに挙げたようなことのいずれかをなすか、あるいは認知科学の何らかのスペシャリストとして科学をするかのどちらかであって、ことさらに現象学者として何かをするわけではないだろう。

 しかし、それですべてだろうか? 

私の予想では、良くも悪しくも、もう一つの寄与の形態、つまり現象学の<最終的な貢献の仕方>というものが実際に残っているように思われる。

そして、現象学にとっての問題は、「哲学でも科学でもない」という自覚なしにそれが漠然と目指されている、という傾向にあると思われる。

では、それは何か?
一言でいって、それは、科学者にインスピレーションや刺激を与えるという点でのみ評価される、芸能(芸術?)としての<お話>である。
しかもそれは現在のところ、小説や戯曲のような奔放さに欠けた、妙に禁欲的な、現象学ジャーゴンでもっぱら綴られる、難解さを売り物にした<哲学物語>である。
その具体的テーマは、例えば「超越論的なものの非主観化」だったり、「世界へ投錨される身体性」だったり、「根元的差異化の裂開」だったりする。

それは、哲学以外の人々に音楽や絵画のような情動的影響を与える以外は、仲間内の別の言葉による換金にしか役立たない一種の<言葉遊び>である。

私は、このような形態での現象学の貢献が必ずしもまったく悪いとは思わない。

しかしそれは、上で述べたような意味での哲学でも科学でもないのだから、芸能の運命が一般にそうであるように、人々の心をつかむ<面白さ>が絶対の条件である。

現象学のレトリックやジャーゴンに知的に反応してくれる貴重な人種を<飽きさせない>だけの斬新で、野心的で、肌理の細かい<お話>でなければ人々からいずれ見放されてしまうだろう。
いつまでも過去の偉大な現象学者の遺産で食いつないでいるようでは、<芸>もやせ細るというものだ。

また、もっと重要なことに、良心的な<お話>作者なら、自分のなしていることがいわゆる<真理>の探求ではなく、<話芸>の追求であることにも自覚的であるべきだろう。

私は、このような<最後の貢献>を現象学が「すべきだ」とも思わないが、やるなら哲学や科学の看板をいさぎよくかなぐり捨てて、できるだけ破天荒に、できるだけ面白くなるように<ぶっ飛んで>もらいたいと思う。

 さてもちろん、これはあまりに事態を単純化している、という批判はあえて引き受けよう。
しかし、あるときは銀行員、あるときは父親、また別のあるときには格闘技愛好家という三つの役割を同じ一人の人物が演ずることはできても、その三つの<平均>であるような役割というのはないのだから、現象学者に対してもその都度こう問うことは大事だと思う。今あなたは、
 <哲学>しますか、<科学>しますか、それとも<お話>しますか?(5)