イアン・ハッキング『表現と介入』

イアン・ハッキング『表現と介入』
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080824/1219561151

ハッキングが、存在に関する実在論を主張するのは、科学においてこの介入ということが行われているからである。つまり、理論的存在に対する操作なり何なりが行われているからだ。

彼は、科学における実験というものを、見極めようとする。

つまり、科学哲学では長く、理論というものが重視されてきたが、彼は、理論と計算と実験のそれぞれを、そしてそれらが共同作業を行っていることを重視する。

決定実験というような考え方も批判していく。決定実験なるものはない。
それは、補助仮説を増やしていけば決定実験による反駁が起こらない、というデュエムのテーゼともまた違う。
つまり、後の世において、決定実験と呼ばれているような実験が、しかし実際にはその理論とは何の関係もなく行われていたからだ。
実験が先に行われ、そのずっと後になって理論が生まれることもある。

また同様にして、理論負荷的という考え方にも批判を投げかける。

「観察」ないしは「見る」という言葉は、科学哲学者が考えるほど、一筋縄ではいかないものなのである。

そこで例としてだされるのが、顕微鏡である。
そもそも、顕微鏡によって「見る」とは一体どういうことなのだろうか。
顕微鏡で見ることは、そもそも直接見ることとは全く異なる。
それは、直接見るときとは、異なる光学的な性質が用いられているからである。

そして、様々に異なるシステムを使いながらも、同一のものが見えるとき、それは実在しているのではないだろうか。

また、ハッキングは、実験とは現象の創造であるともいう。

彼は、現象のことを規則性のことであると述べる。

それは、私的なもの、感覚所与などではなく、もっと公的なものなのである、とも述べる。
科学は、現象を説明するだけではない。現象を創造するのである。
しかしそれは観念論というわけでもない。そもそも規則性を見いだすためには、実験室において、様々な条件を整えて実験器具を設定しなければならない。

科学とは、理論だけで成り立っているものではない。実験と理論の両方が必要なのである。
これを、ベーコンの蜜蜂のたとえによって彼は説明している。
また、唯一の正しい理論があるのではなく、様々な理論が絡み合ってこの世界が出来ているといい、そのことをボルヘス的と言い表してもいる。

とにかく、科学において実際にはどのようなことが行われてきたのか、ということに着目して、
そこから実験というものの重要性を拾い出し、科学哲学者が思いこんでいたような実験や観察についての考え方を突き崩していく。

そして、実験によって作られ、そして操作される存在こそが、実在していると述べているのである。